• 社長ブログのメイン画像
     

年寄りの見栄
 最近年令による衰えが自覚されるようになってきました。一昨年来の腰痛から始まり、ひざの痛み、疲労回復力の低下、人の名前が出てこない等々、枚挙にいとまがないほどです。病院に行っても「加齢」の一言で済まされ、痛め止めの薬や湿布薬などをあてがわれるだけです。「対症療法だけで治療を放棄するとは何事だ」と叫びたくなりますが、周りを見ると私のような年頃の患者(?)で待合室は埋まっています。

 年を意識するのは人間稼業では当然のことですが、年の差が上下の関係になると話が少しややこしくなります。先輩後輩の関係です。私の若かりし頃、特にスポーツの世界では先輩は絶対的な存在でした。先輩のしごきや説教を後輩は甘んじて受けなければいけません。理不尽などという言葉はその世界には存在しませんでした。

 もう7、8年近く前のことですが、韓国人の留学生の里親になったことがあります。里親と言っても全面的なものではなく、月に一度家に招いて食事をし、生活上のことで何か困ったことがないか話を聞いてやる程度の事でした。その食事の時に男子学生だったのでビールを出したのですが、その学生はグラスを持ったまま横向きになって飲むのです。目上の人の前では真正面で合い対して飲むのは失礼だというのが韓国の文化だったのです。

 年長者を敬うのは儒教文化の影響かもしれませんが、年齢の基準だけで絶対化してしまうといろんな弊害が生じます。過っては年上というだけで大きな顔をしている輩には必ず反発した私ですが、最近は反発しようにも、わたし自身が一番の年長者である場面が多くなっています。逆に反発される対象になるはずですが、そんな場面にはまだ出くわしておりません。わたしの仁徳の至りだと思いたいのですが、単に存在感が希薄になっているだけかもしれません。

 年が明けるとすぐ70の大台に乗る私です。これがゴルフのスコアであれば、私にとっては達成の祝宴を大々的にしなければいけない程のことですが、残念ながら齢の事です。古稀の祝いはあるのですが、元来ひねくれ者で率直になれない私は、早く逝けと皆が嗾けているのではないかと思ってしまいそうです。

 ブラックジョークに、年寄りが家族にないがしろにされるのに腹を立て、「大切にしないとボケてやるぞ」と言うのがありました。いまの世、ボケられるのは家族にとっては恐怖です。まだその域の齢にはもう少し間がありそうですが、一つだけ心配があります。
「享年〇歳」です。故人を数え年で表すのが葬儀での慣習だというのです。故人になった途端、1歳あるいは2歳上乗せされてしまうのです。こうした悪しき慣習こそ打破すべきだと、齢を感じてきた私はみみっちい見栄を張るようになってきています。

by 北嶋 正 ¦ 17:11, Monday, Jul 17, 2017 ¦ 固定リンク

  • ページトップへボタン

Powered by CGI RESCUE